2010年11月29日月曜日

和して同ぜず

今日は、職員会議のあと、学校で先生方にも人権週間に向けた標語の選考をしていただきました。
皆さんの応募した標語は、26日(金)の委員会で集約され、先生方と委員長・副委員長で選出して最終的な優秀作品が選ばれます。12月6日(月)の全校朝会をお楽しみに…。

さて、今日も人権にからんだお話しを一つ。

大学を卒業する時の卒業式で、学長が話していた言葉に、

「君たちには、『和して同ぜず』と言う言葉を贈る」

といわれたことを覚えています。

「和して同ぜず」とは、こんな意味。

人と協調していくが、決して考えもなしに同調せず、仲間との人とのなごやかな人間関係に心がけて周囲に気を配るが、その場の雰囲気などで無責任に賛成するようなことはしない。

「論語」のなかにこの言葉が出てきます。

 「君子は和すれども同ぜず。小人は同ずれども和せず」

そうすると意味は、こんな感じでしょうか。

立派な人間は、決して考えなしに同調しないが、仲間との関係を大切にしていつも周囲に気を配り、ともに仲良くやっていこうとする。つまらない人間は、やたらに人の意見に同調するものの、本当に同じ考えなのではなく、表面だけそう接しているのであり、そこには友好関係や仲間との良い関係は生まれない。

あなたは、他人に対してどうですか?

本当はこんなことやったらいけないと分かっているのに、何となく誘われてやっているなんてことは、ありませんか?


例えば友達がいたとします。
仲の良い友達で、その子がちょっと人の悪口を言ってみる…、その場の雰囲気で、そうよねぇ~、と同調する。そのうち、本人が目の前を通ったりして二人だけで小声でその子の悪口を言い合う…。

こんなささいなことですが、本当は「悪口、あんまり言いたくないんだよねぇ」と思っているのに、たがいに考えなしに同調してしまったばっかりに、しだいに悪口の手段が悪質になり、手が出たり、ものを壊したり、集団で無視をしたり…。あのささいな悪口に同調してしまったばっかりに、いじめというもの波を大きくしていってしまうような気がします。

本当に友達ならば、「○○さんのことをこう思う…」と言われたら、「同ぜず」ということで、簡単には無責任に同調しないということは大切なのだと思います。ましてや、陰湿ないじめになっていったり、手が出てしまうようなことになったりしたらなおさらです。その場にいるあなたが無責任に黙認するのではなく、あなた自身の中にいる正義の心で、いくら仲の良い友達でもその動きを止めることは大切でしょう。

友達同士も学級の中でのそうですが、時には互いに切磋琢磨したり、言いたいことを言い合って気持ちの中のすれ違いを整理したりすることは、時にはそれが口げんかなどになってしまうこともあるけれど、次に強い絆で結ばれていくためには大切な過程なのだと思います。合唱コンクールの時、「喝!」を入れてくれた友達があなたのクラスにいたとするならば、まさにそれこそが「和して同ぜず」。時には高いところを求めて、厳しいことを言い合うことも、次のレベルをめざすためには必要なのだと思います。

友達関係や学級の仲間との関係だけではありません。

それは、部活動でも、家庭でも、職場でも、同じようなことが言えると思います。

これからの私たちが生きていく社会ではずっと。


あなたの考えが大切で、仲間とうまくやっていくことがまず第一に大切なんだけれど、時には仲間ととことん話し合い高め合うことが大切。それが、明日への新しい進歩を生み出すことになるのだと思います。
逆に、そういうことも言わずに考えもなしで、「それでいいです。」なんて進めたところで、心の中に自分の気持ちが十分入っていないので、いいですといった自分までもが適当にこなしてしまい、返って何も生み出さなくなると言うことも起きてくるでしょう。

いじめの問題は、その場に居合わせて「巻き込まれた」という人たちの無責任も問題を大きくする原因です。ここはしっかりと自分自身の正義なり考えなりをもって、だめなものはだめとしっかり言える強い心が必要です。でも、そんな人たちも共に生きる『仲間』ですから、彼らとも関係を大切にして互いに仲良くやれるようにしていくことも大切だと思います。

…伝わったかなぁ。

議論で高め合える仲間になれるといいですね。